「フリーダイビングを始めたいけど、どれくらい息を止められればいいんですか」
いちばん多い質問だと思う。そして、たいてい「2分くらい」といった曖昧な答えが返ってくる。
正確な答えは目的によって違うし、それは各団体が規格書に数字で書いている。この記事では、その数字を出したうえで、伸ばす方法について研究が何を言っていて、何をまだ言えていないかを正直に書く。
結論:必要な秒数は、目的で決まっている
資格を取るなら → 90秒〜2分45秒
団体が要求している秒数はこうだ。
| 資格 | 静的無呼吸の秒数 | 位置づけ |
|---|---|---|
| PADI Freediver | 90秒 | 目標(Goal) |
| AIDA 2 | 2分00秒 | 合格要件(at least) |
| SSI Freediver | 最低要件なし | — |
| PADI Advanced | 2分30秒 | 目標 |
| AIDA 3 | 2分45秒 | 合格要件 |
重要なのは、数字の意味が団体で違うことだ。AIDAは「越えないと認定されない線」として書き、PADIは「指導の到達目標」として書いている。詳しくは資格の比較記事に書いた。
つまり**「最初の一枚」に必要なのは、長くて2分**。ここが最初の到達点になる。
海で遊ぶだけなら → 1分あれば足りる
意外に思われるが、レクリエーションで潜るのに長い息こらえは要らない。
水深10mを往復するとして、潜降・浮上をそれぞれ毎秒0.5mで進めば片道20秒、往復40秒。水底で少し留まっても1分前後で戻ってこられる計算になる(これは単純計算であって、団体が示す基準値ではない)。
実際に効いてくるのは「長さ」より「余裕」だ。 60秒止められる人が40秒の潜水をするのと、80秒止められる人が同じ40秒の潜水をするのでは、後者のほうが圧倒的に安全に、楽しく潜れる。限界の半分以下で行動する、が基本になる。
世界記録は11分35秒(ただし別世界の話)
AIDA公認の静的無呼吸の世界記録は、男子が11分35秒(Stéphane Mifsud/フランス、2009年6月8日)、女子が9分39秒(Heike Schwerdtner/ドイツ、2026年6月5日・WORLD APNEA 2026 Pool Championships/ブダペスト)。同選手が2025年5月に出した9分22秒を、自ら更新した。
ここは目指す場所ではなく、人間の幅を知るための数字として置いておくのがいい。
何が息こらえの長さを決めているのか
「肺活量が大きい人が有利」と思われがちだが、決定要因ではない。
息こらえを終わらせているのは、酸欠ではない
Willieらはエリート息こらえダイバー17名を測定し、こう報告している。動脈血の酸素含量が40〜50%も低下しているのに、脳血流が同じだけ増えて酸素供給量は維持されていた。息こらえが終わるのは、脳が酸欠になったからではない。
終わらせているのは主に二酸化炭素の蓄積による呼吸衝動だ。横隔膜がけいれんし、「もう吸わないと」という感覚が来る。
だから鍛える対象は、肺の容量ではなく、この衝動への耐性になる。
心拍を落とせるかどうか
顔を水につけて息を止めると、哺乳類潜水反射が働いて心拍が落ちる。酸素の消費が減る。
つまりリラックスできることが、そのまま酸素の節約になる。「フリーダイビングはメンタルのスポーツ」と言われるのは精神論ではなく、酸素収支の話だ。
脾臓が縮む(ウォームアップの効果)
息こらえを繰り返すと脾臓が収縮し、貯蔵していた赤血球が血流に出る。Schagatayらの研究では、脾臓を持つ群で息こらえ時間が17秒(30.5%)延び、脾臓を摘出した被験者ではこの変化が起きなかった。
1本目より3本目が楽なのは、気のせいではない。
訓練で本当に伸びるのか — メタ分析の答え
ここが、この記事でいちばん誠実に書きたいところだ。
伸びる。効果は大きい
8つの研究・10のトレーニングプロトコル・138名を統合したメタ分析(Massiniら 2023)は、こう結論している。
静的息こらえ時間の改善は、介入後に大きな効果を示した(g=1.30, 95%CI 0.85–1.76, P<0.01)
効果量 g=1.30 は「大きい」に分類される水準だ。訓練すれば伸びる、は科学的に支持されている。
Schagatayら(2000)も、息こらえ訓練によって生理学的ブレイクポイント(二酸化炭素分圧で決まる限界点)が遅れ、潜水反射自体も強くなることを報告している。
ただし「最適な方法」は、まだ決まっていない
同じメタ分析は、続けてこう書いている。
3つの方法(息こらえ訓練・体力訓練・両者の併用)はいずれも静的息こらえ時間の改善に有効だったが、既存のプロトコルからは、息こらえ時間ひいてはフリーダイビングのパフォーマンスを改善する理想的な方法を推奨することはできない。
「これが正解のメニューです」と言い切れる根拠は、2023年時点の研究の総体として存在しない。 巷にある「◯週間で◯分伸ばすプログラム」の類は、この事実の上に立っていることを知っておいたほうがいい。
ウォームアップの科学
準備の息こらえについては、比較的新しい研究がある。
Vrdoljakら(2025)は経験者14名(39±10歳)を対象に、次のプロトコルを用いた。
- 準備の息こらえ 3本 — 1本目は機能的残気量(FRC)、2・3本目は全肺気量(TLC)、各2.5分間隔
- その後、最大息こらえ 3本 — 各5分間隔
結果として、FRCでの準備息こらえ中に横隔膜圧がより強く上昇した人ほど、最大息こらえが長かった(r=0.65〜0.66, p=0.01〜0.02)。
ただし注意してほしい。これは研究で採用された手順であって、万人向けの推奨として提示されたものではない。FRC(息を吐き切った状態)での息こらえは負荷が高く、初心者が単独で真似すべきものではない。
CO2テーブル・O2テーブルとは何か
フリーダイビングの世界で広く使われている訓練法だ。
- CO2テーブル … 息こらえの長さを一定にして、あいだの休憩を少しずつ短くする。二酸化炭素の蓄積に慣れる
- O2テーブル … 休憩を一定にして、息こらえを少しずつ長くする。低酸素に慣れる
考え方は理にかなっている。ただし——
⚠️ どちらが優れているか、どの組み方が最適かを示す質の高い比較試験は、今回の調査では確認できなかった。 前述のメタ分析も、方法の優劣までは特定していない。
広く使われていることと、エビデンスがあることは別だ。指導者のもとで、自分の反応を見ながら選ぶ以上のことは、現時点では言えない。
絶対にやってはいけない3つ
伸ばし方の前に、ここを満たさない練習はしない。
① ハイパーベンチレーション(潜る前の過換気)
深呼吸を繰り返すと長く止められるようになる。だがこれは、警報器の電池を抜く行為だ。
過換気で減るのは二酸化炭素であって、酸素ではない。呼吸衝動は二酸化炭素で起きるので、「苦しい」が来るのが遅れるだけで、酸素は増えていない。結果として、苦しくないまま酸素が尽きる。
Lindholmらの測定では、競技ダイバーの最大息こらえ終了時の呼気終末酸素分圧は26.9±7.5 mmHgまで落ち、うち2名が運動制御を失った時点の値は19.6 mmHg と 21.0 mmHg だった。意識を保てる下限は25〜30 mmHg付近とされる。余白はほとんどない。
② ひとりでの練習
DANの安全指針の第一条はこうだ。
フリーダイビングのルール1は、練習であっても決してひとりで潜らないこと。
水中はもちろん、陸上での限界までの息こらえも単独では行わない。意識を失っても本人は気づけない。倒れる場所によっては、それだけで致命傷になる。
③ 「あと少し」を我慢する
呼吸衝動は苦しいが、体を守っている警報でもある。記録を狙う場面での我慢は、訓練を積んだ人が、安全確保のある環境で行うものだ。
伸ばすことより、毎回無事に帰ってくることのほうが、はるかに難しく、価値がある。
現実的な始め方
以上を踏まえて、初心者が最初にやることを書く。
- 講習を受ける。 独学で息こらえを鍛えるより、バディの安全手順を先に身につけるほうが早い
- リラックスから入る。 秒数を測る前に、息を止めた状態で力を抜けるようにする
- 記録は「限界」ではなく「余裕のある値」で残す。 限界を毎回更新する練習は、事故の作り方に近い
- 練習会に通う。 ひとりで潜れない以上、継続の実体は「通う場所」だ(首都圏のプール事情はこちら)
この記事で確認できなかったこと
- Schagatayら(2000)の訓練期間・頻度の詳細数値 … 出版社サイトが有料で本文を参照できず、訓練が何週間・週何回だったかを確認できなかった。本記事では「訓練により生理学的ブレイクポイントが遅れ、潜水反射が強まった」という定性的な結論のみを扱った
- CO2テーブル/O2テーブルの効果を直接比較した研究 … 確認できなかった
- 初心者の平均的な息こらえ時間 … 公表された一般値を確認できなかったため、資格要件を代替の目安として提示した
- AIDA公式サイトの世界記録ページ … アクセスできなかった(403)ため、記録はギネス世界記録の「AIDA公認」表記を出典とした
- 年齢・性別による到達可能秒数の差 … 一般化できる知見を確認できなかった
本記事は査読論文および指導団体・DANの公開資料に基づく情報提供であり、医学的助言ではありません。息こらえのトレーニングは必ず有資格のインストラクターの指導下で、バディとともに行ってください。
